散歩道

週末散歩や備忘録

連れ合いがくも膜下出血に倒れる

随分と長い期間、ブログを更新していませんでしたが

その間に様々な事があり、中でも最も大きな事件が

連れ合いの病気です。

私の記録用としてこの日記を書いています。

 

突然の病の前には夏の休暇を利用して、近場ではありますが

比叡山にある、「ロテルド比叡」というホテルに

GO TOトラベルで宿泊。

延暦寺の早朝勤行にも参加させていただくという貴重の経験ができた。

それが9月中旬のこと。この時、保津峡下りなども初めて体験もした。

楽しい思い出。

 

それから丁度1か月後の10月16日金曜日

早朝3時、突然連れ合いが激しい頭痛と吐き気で苦しみ始める。

その苦しみ方は尋常ではなく、すぐに救急車を呼び

救急病院へ運び込まれる。

この時、意識はある。「痛い、痛い」とずっと言っていた。

どれほど痛かっただろうと今も胸が苦しくなる。

 

一人待つ、待合室の心細さと寒さは今もつい昨日の事のように思い出される。

 

検査が終わり、診察室に呼ばれて主治医から言われた最初の言葉は

くも膜下出血です。この病気は3割の方が亡くなります。」

 

何か、遠くで声が聞こえているような、自分に発せられた言葉ではないような気がして

ただ、機械的に頷いていた。

その後、症状の説明を受ける。

脳の左側に動脈瘤ができており、それが破裂した。

原因はわからない。連れ合いは高血圧でもなく今までこれといった病気もない

糖尿病でもなく、多少メタボ予備軍ではあったが、動脈瘤の原因ではないという。

くも膜下出血は年齢に関わらず、若くても太っていても細くても突然発症する。

そして、突然に命が奪われる恐ろしい病気。

 

「今の状態は5段階中の1か2です。開頭して破れた血管をクリップで止めます。

左側なので、心配されるのは言語に影響がある可能性もあります。

生存された4割の方が後遺症なく社会復帰されます。」

 

冷静に説明して下さる脳外科医の先生のお話の中で何とか希望があると思われる言葉を無意識のうちに心に止める。

 

「何か質問されたいことはありますか?」

 

そう言われ、

「どうか、無事に返してください。」

 

それだけをやっと答えた。

 

あまりの突然な出来事に涙すら出てこない。

 

説明を受けた時はおそらく4時半頃。

 

その後、連れ合いはICUへ移動。

 

その時、まずは近くに住む娘に連絡しなくてはと思い

この時点で連絡。

その後、大阪に住む娘にも連絡。

同じく大阪の連れ合いの母にも連絡。

 

実は私たち夫婦は互いに離婚歴があり、連れ合いには娘が二人

私には息子が3人、そして同居している私の母がいる。

 

手術は9時半頃から開始予定。

7時頃から麻酔で眠らせ、痛みから解放する。

それ以前に連れ合いのスマホのロック解除番号を聞かなくてはとこの時意外にも冷静にそう思う。

看護師さんに解除番号を聞いてもらう。意識がこの時まだあり

番号は聞けた。

 

場合によっては、手術後意識が戻らない事も覚悟しなくてはならなかった。

連れ合いの会社の連絡先を私は知らない。

 

手術時間は予定では午後6時頃終了。

 

それまでに連れ合いの会社関係の方に連絡。

そして私の会社にも事情を連絡。

 

その間、連れ合いの妹からも連絡があり、大阪の娘夫婦を連れてこちらへ向かってくれるという。

 

手術前、に近くに住む娘を連れて、長男が病院に到着。

 

長い待ち時間の間、様々な人からの連絡を受ける。

この日、実は大阪にて研修の予定だった連れ合いは

以前の職場からの親友と久々に会う予定にしていた。

その友人にも連絡した。

 

気が付くともう昼を回っていた。

 

いつ、何が起きるかわからないため、手術が終わるまで院内からは出られない。

娘と息子と3人でただ待った。

 

娘が「パパ、死なへんよな」

 

そういった途端、今までピンと張っていた糸がぷつっと切れた

 

一気に涙が零れ落ちた

「そんなん、私が許さへん!」

 

娘は小さく「うん」と答えた。

 

夕方近くなり、連れ合いの妹が長女夫婦を連れてやってきた。

 

実はしっかりしているのにおっとりした話し方をする長女と物静かだが優しいその夫。

頭の回転が速く、しっかり者でとても美人の妹。

 

人数が増え、私もほっとしたのか、落ち着いて状況を説明できた。

 

夕方6時前、予定どおり手術は終了した。

 

その後二日間、脳を休めるために意図的に麻酔を切らず眠り続ける連れ合い。

 

再開は月曜日だ。